いま目の前、キーボードの左わきに二冊の岩波文庫が置いてある。2冊ともメルヴィル作『白鯨』上巻である。モスグリーンのカバーのが旧訳・阿部知二訳、ブラックグレーのカバーのが新訳・八木敏雄訳である。双方とも岩波文庫の「赤308-1」である。
《訳者が違えば中身がまるで違う場合もありうるというのに、岩波は翻訳もしくは翻訳者を軽く考えているのだろうか?》
《それにしても、枝番くらい工夫すればよかりそうなものを!》
と、心中、舌打ちをしながらこの二冊を裏返して驚いた。なんと裏表紙に記されたISBN番号が両者とも「ISBN4-00-323081-7」と、まったく同一なのである。どうなっているのだ、これは!
唐突ではあるけれども、ここに畏友 nous さんから昨晩届いていて、いま初めて見た返信を挿入させていただきたい。
ふるみねさま
倉卒の間にすこしだけ返信を書きます。貴下が触れてをられない本邦11番目の『白鯨』訳(八木敏雄訳)は阿部知二訳に代る岩波文庫版として2004年末に上中下3巻本が刊行されました。
『鯨とテキスト』(研究社)の著書もある八木さんの訳はどうなつてゐるかといふと・・・
(41章、八木敏雄訳)
わたしイシュメールも、あの乗組みの一人であった。わたしの叫びは、彼らの叫びといっしょになって天(あま)がけり、わたしの誓いは彼らの誓いととけあってひとつになった。わたしの内なる恐怖のせいで、ひときわ高くさけぶたびに、わたしは自分の誓いをハンマーできたえ、より堅固な錬鉄(はがね)にきたえていった。(上巻438頁)
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Chapter xli MOBY DICK
I, Ishmael, was one of that crew; my shouts had gone up with the rest; my oath had been welded with theirs; and stronger I shouted, and more did I hammer and clinch my oath, because of the dread in my soul. [Electronic Text Center, University of Virginia Library]
[A] パヴェーゼ訳 CAPITOLO XLI Moby Dick
Io, Ismaele, ero uno di quest'equipaggio; le mie grida s'erano levate con quelle degli altri, il mio giuramento s'era confuso con loro, e, piu` forte gridavo, piu` ribadivo e allacciavo questo giuramento, per il terrore che sentivo nell'anima.
[B] 阿部訳 四十一章 モゥビ・ディク
この私、イシュメイルも、あの乗組の一人であった。私の叫びは彼らのとともに立ち上がり、私の怒号は彼らのと相交った。いや、心中の恐怖のために、私の叫喚はひとしおにはげしく、私の怒号はひとしおに執拗だった。
[C] 田中訳 第四十一章 モービィ・ディック
このわたし、イシュメールも、あの乗組の一人だった。わたしの叫びはほかの者の叫びとともに空に舞いあがり、わたしの怒号はかれらのそれと相交った。いや、心中の恐怖のために、わたしはひとよりも激しく叫び、ひとよりもやかましく怒号した。
この一文、my oathを訳し忘れたせいか、[B][C]ともに後半の訳がいい加減だ。というか、まるで訳せていないままにほっておかれている。〈強く叫べば叫ぶほど、ぼくの誓いは強固になるばかりだった〉、という意味なのに。呆れるなぁ、[C][B]は訳者代れど、どうしてこうも同じ間違えを踏襲するのだ? むろん、[A]は(more)..., more....をpiu`..., piu`.... と、きちんと構文を捉えて的確に訳している。それがあたりまえのことなのに。
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(八木敏雄訳、つづき)
何か凶暴な、何か神秘的な共感がわたしの内部に生じていたのだった。エイハブの抑えがたい怨念をわがことのように感じていたのだった。乗組み一同ともども、わたしはその凶暴な怪物の来歴に貪欲な耳をかたむけ、また一同ともども、その怪物を殺戮して復讐をとげることを誓ったのだ。(上巻438頁)
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A wild, mystical, sympathetical feeling was in me; Ahab's quenchless feud seemed mine.
[A] Un mistico, sfrenato sentimento di simpatia era in me; l'odio inestinguibile di Achab pareva fatto mio.
[B] きちがいじみた、不可思議な感情が身の中にともどもに流れ、燃えさかるエイハブの憤怒は私自身のものとさえ思われた。
[C]狂暴な、わけのわからぬ感情が、わたしの内にひとびととともに流れ、エイハブの消ゆることなき敵意は、またわたし自身のものであるような気がした。
With greedy ears I learned the history of that murderous monster against whom I and all the others had taken our oaths of violence and revenge.
[A] Con avide orecchie ascoltai la storia del mostro assassino contro il quale io e tutti gli altri avevano prestato giuramento di violenza e di vendetta.
[B] 一同とともに、あの凶暴な怪物を殺戮し復仇をとげようと誓いながら、そいつの歴史について、耳をそば立てて聴き入った。
[C]根ほり葉ほりして、あの兇悪な怪物の歴史をきき、一同とともにそれを打ち殺し復仇をとげようと誓った。
my oath がここへ来て、our oaths に変わってゆく、そこのところがわかるような訳出が求められている。
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どうでせうか。日本語訳の相対的優位性の点からいへば、彼我の差は明かだと思ひますが。【nous】
ふむ、「さけぶたびに、わたしは自分の誓いをハンマーできたえ」か、これはぼく自身気を抜いたとたん、読み落としに近いことをしでかすということだな。
"...., and more did I hammer and clinch my oath,...." か。
むろん、パヴェーゼはこの箇所も",....piu` ribadivo e allacciavo questo giuramento,...." と、きちんと訳している。
八木敏雄訳を読むことは、ぼくがとうに果していなければならなかった数多くの宿題の一つだけれど、いますぐにはかかれぬとしても、これは大分順番を繰り上げてかからねばいけなそうだ。というか、すぐにでも読んで確かめたいところだけども、いまは原作を読んでいるところだし、すぐそのあとでパヴェーゼ訳をまたも読み返したいのだ。気になっている邦訳はあと一つあることだし…… 読んだ時点で[E]訳、[F]訳として、この文章にはつけ加えてゆくことになるのかな。
で、その後結局、八木訳、上、中、下をアマゾン・マーケットプレイスを介して、それぞれ三つの古本屋に発注した。昨晩M書店から届いた下巻を開けると、これが阿部訳だ。これからメールして、その対応を見極めねばならない。やれやれまたしても道草を掻いてしまった。
前略
「八木訳」を注文したのに「阿部訳」が届いています。そちらの〈商品の詳細〉にも、「八木敏雄訳」と、明記されているにも拘らず、です。
翻訳を比較・検討しているので、「八木敏雄訳」が必要なのです。早急に発送し直して頂けるものと信じております。
草々
これに対して、たったいまM書店から返信が届いた。
ご連絡を頂きましてから調べましたところ、『白鯨』の阿部訳と八木訳のISBN番号が同一である事が判明致しました。アマゾンはISBNによる商品識別のシステムになっており、当店も書籍データの入力を同方法で行っている為、今回のようなことになってしまったと思われます。本来、同一のISBNの異本はあってはならないものです。
との由で、まったくその通りであるし、「今までに経験の無い事であるとはいえ、確認を怠ってしまい、誠に申し訳ございませんでした。」との一言があったうえに、返金もなされるとの事なので、「幸い良心的な書店に当たった」と、かえってこちらが恐縮してまった。
岩波かアマゾンかISBNかに問題があるものと思われる。古書店側の労力など屁とも思っていないのだろうか? 熱心な読者の迷惑などは歯牙にもかけていないに違いない。ともあれ、八木訳下巻は他の方法で求めねばならなくなった。思わぬ道草を喰ってしまったが、さて、他の書店に求めた上、中巻の方は、果たして大丈夫であろうか?
念のため、アマゾンにも次のように問い合わせてはおいたが。
八木訳を注文したのに、阿部訳が届いてしまった件。返金して頂く事は諒解したのですが、八木訳をアマゾン・マーケットプレースで確実に入手するにはどうすればよいのですか?
岩波文庫『白鯨』の阿部訳と八木訳のISBN番号が同一である事が判明。アマゾンはISBNによる商品識別のシステムになっており、出品者書店も書籍データの入力を同方法で行っている為、今回のようなことになってしまったと思われます。本来、同一のISBNの異本はあってはならないものと私も思うのですが?
遅い昼寝から覚めると、岩波文庫【白鯨】上・中巻が届いていた。コヒーを淹れて、
「やれやれ、やっと着いたか」
と、つゆ疑わず、開けてみると、
「なっ、なんと!!」
上・中巻ともに、阿部訳であった。上巻のF書店、中巻のN書店にも上述のメールを送って、それぞれの対応を見極めねばならない。なお、アマゾンはぼくの問い合わせにも拘らず、音沙汰無しである。怪しからん、と言うべきか。
岩波かアマゾンかISBNかに問題があるものと思われる。古書店側の労力など屁とも思っていないのだろう。熱心な読者の迷惑などは歯牙にもかけていないに違いない。八木訳上・中巻も、他の方法で求めねばならなくなるのであろうか?
深夜の散歩から帰宅すると、F書店から返信が寄せられていた。
遅くなり申し訳ありません。F書店です。お手数ですが商品名をお知らせ下さい。
これに対して、当方からはこう返信しておいた。
F書店THさまでしょうか? これは大変抜かって申し訳ありません。商品名は、《白鯨 上 (岩波文庫) by ハーマン・メルヴィル;八木敏雄》です。
《「八木訳」を注文したのに「阿部訳」が届いています。そちらの〈商品の詳細〉にも、「八木敏雄訳」と、明記されているにも拘らず、です。翻訳を比較・検討しているので、「八木敏雄訳」が必要なのです。早急に発送し直して頂けるものと信じております。》
と、アマゾンを介してお便りを差し上げたつもりでしたが、肝心の商品名が抜けておりましたか。実物で訳者名を確認の上、《白鯨 上 (岩波文庫) by ハーマン・メルヴィル;八木敏雄》を送り直して頂けると大変助かるのですが。
これに対してF書店から
岩波文庫の場合旧作と新作で訳者が違っていても出版時のISBNコードが同じなので今回の事態になってしまいました。こちらの確認ミスです。新作の方は当方の在庫がありませんでした。ご迷惑おかけして申し訳ありませんが今回、ご返金させていただきます。
との返信があった。それに対して当方は、
深夜にも拘らず、早速の返信ありがとうございます。返金してくださるとの由、かえって恐縮です。「岩波文庫の場合旧作と新作で訳者が違っていても出版時のISBNコードが同じ」との由、訳者が違えば中身がまるで違う場合もあります。岩波は翻訳もしくは翻訳者を軽く考えているのでしょうか?《本来、同一のISBNの異本はあってはならないもの》と、私も考えているのですが。
これにはすぐに返信があって、
岩波文庫はかなりの確率で同じコードが有ります。当方も訳者を確認して違う場合コメント欄に注釈を入れて出品しているのですが……
後日、これには【nous】さんも驚いてしまって、寡筆の彼がこんな便りを寄せてくれた。
前略
ブログは先日拝読しました。岩波のISBN重複の件については、信じられないことだ思ひます。岩波側の手違ひなのでせうか。
岩波文庫では近年、古典の新訳を進めてゐますが--思ひつくまま例をあげると、『緋文字』(これも新版は八木訳)、『嵐が丘』、『オリヴァー・トゥイスト』など--旧版と新版のISBNがすべて同じだつたら、大混乱になるでせう。
そもそも同じ番号を恣意的につけられるものなんでせうか。
釈然としないですね。【nous】
さて、残るは中巻のN書店のみだが、これはまだ音沙汰もない。
朝、芥出しのついでに散歩に出て、久しぶりに黒川公園を抜けて、淺川の土手で一服した。どういうわけか、失業の身にかぎって、河原に寝そべって空ゆく雲を眺めたり、水際を覗きこんで日溜りに屯する鯉たちと目線を交わしたりしたくなる。帰りにふと思いついて、駅前のK書店に寄ると、新訳『白鯨』上、一冊だけが奥の棚にあった。早速買い求めて、空いてる片手に持ったまま帰宅した。
《これで忙しくなる。新会社に顔を出すのは明後日にしよう。》
昼近くに、今日初めてデルを立ち上げると、N書店からメールが届いていた。
岩波文庫では2004年の版から訳者が八木敏雄にかわっていますが、ISBN(図書番号)が旧訳本と同一な為、訳者変更に気付かず、阿部訳の註釈を入れないまま出品いたしておりました。残念ながら当方に八木敏雄訳の在庫はございませんので以下のような手続きをいたしました。
■Amazonにて新本を注文しました。(ふるみね様宛直送)明日にはお手元に届くと思います。
……
■結果、ご請求はあくまで当方の阿部訳分のみです。
ぼくもすぐさまN書店へ、「まず、的確、親切なご処置への御礼申し上げます。何よりも中巻・新本を注文していただいてありがたく思います。請求もないとは、かえって恐縮の至りです。ご清栄をお祈りしております」と、返信した。
早めの夕食を済ませてすぐ、N書店がアマゾンに発注した中巻・新本・八木訳がもう届いた。何か、昔どこかで触れた温かさに接したような気がして、冷えた胸に瞬間、ジンと響いた。
これにて、一連のメール往来は終結、それでもやや疑問が残るのは――アマゾン・マーケットプレースの出品者側の態度にも問題があるのではなかろうか? そもそも新訳本の出品スペースに旧訳本を出品すべきではないだろう。旧訳本には旧訳本の出品スペースがあるであろうから。なかには「カバーは違うけど」なんて、厚かましい案内もあったように思う。新旧翻訳の違いとは、カバーの違いだけのことなのだろうか? 翻訳者も虚仮にされているものだ、この世界では。今回の場合でも、もし問い合わせのメールを出さなければ、新訳本を求めた読者は料金は取られて不用の旧訳本を抱かされたまま泣き寝入りだったことだろう。
ともあれ、これにて、一連のメール往来は終結、やっと[E]八木訳をブログに反映させることができるようになった。これまでの記述を読み返しながら、適宜、先に記したように[E]八木訳を付記してゆくとしよう。
「Moby Dick , Herman Merville、ところで、……」
横羽線を驀進中に、きみに宛てた追伸のことをおれは考えていた、瞬間、客の言った高速の降り口を忘れてしまった。
「ん? 浜川崎、これだ、これっ」
地べたに降りてから結構、僻地まで行ったので、まっ、いい客だった。
アケの朝、飲んで、寝て、起きると、Moby Dick ペンギンのポピュラー版だが、ようやく届いた。早速読み始めたが、楽しみなことだ。読書の合間にちょっと比較してみる。
Melville, Moby Dick
CHAPTER 1 Loomings
CALL me Ishmael. Some years ago--never mind how long precisely--having little or no money in my purse, and nothing particular to interest me on shore, I thought I would sail about a little and see the watery part of the world.
[A] パヴェーゼ訳
CAPITOLO I Miraggi
Chiamatemi Ismaele. Alcuni anni fa - non importa quanti esattamente - avendo pochi o punti denari in tasca e nulla di particolare che m'interessasse a terra, pensai di darmi alla navigazine e vedere la parte acquea del mondo.
[B] 阿部訳
一章 影見ゆ
私の名はイシュメイルとしておこう。何年かまえ――はっきりといつのことかは聞かないでほしいが――私の財布はほとんど空になり、陸上には何一つ興味を惹くものはなくなったので、しばらく船で乗りまわして世界の海原を知ろうとおもった。
[C] 田中訳
第一章 海妖(あやかし)
まかりいでたのはイシュメールと申す風来坊だ。もう何年前になるか――正確な年数などどうでもよかろう――懐中は文無し同然、陸地ではこれというおもしろいこともないので、しばらく船に乗って、水の世界を見て来ようと思った。
うん、[A]、[B] ともに良い訳だ。パヴェーゼ訳文のリズムには短篇『流刑地』冒頭の一文を想起させられる。[C] 新潮文庫は今日届いた。岩波文庫、阿部知二訳[B] はここでは「としておこう」だったり、会話はともかく、地の文にまで「んか」「んか」という調子が頻出して、いまいちだったので、新潮文庫、田中西二郎訳[C]に期待していたのだが、劈頭の一文を見る限り、失望した。とはいえ、その語源および文献抄は[B]よりはるかに出来がいいし、訳注の作り方は真摯で、学ぶに足る。その彼にしてなぜ、「まかりいでたのは」であり「と申す風来坊」、「などどうでもよかろう」なのだ?原文ではそんなこと言っていないし、言外に含んでもいない。ここまで書くと、おのれの試訳の一端を示さねばフェアではないかも知れない。
[D] ふるみね訳――
《ぼくのことはイシマエルとでも呼ぶがいい。何年かまえに――正確にはどれほどかは問題ではない――財布には数枚あるかなしかで、陸ではこれといって何も興味を覚えそうもなかったので、船乗りになって世界の海原を見てやろうと考えた。》
[E] 八木敏雄訳
第一章 まぼろし
わたしを「イシュメール」と呼んでもらおう。何年かまえ――正確に何年まえかはどうでもよい――財布がほとんど底をつき、陸にはかくべつ興味をひくものもなかったので、ちょっとばかり船に乗って水の世界を見物してこようかと思った。
[今夕、岩波文庫新訳・八木訳を入手したので、ここに[E]訳として挿入しておく。以下同断。]
まっ、鯨で言えば、[A] は紛うかたなき〈白鯨〉、[B],[E] はマッコウクジラの類ではあるのだが、はて?、[C] はこれはもうニタリクジラだな。[D]はイルカかシャチか? むろん、読み進むうちに大抹香に変身してくる可能性は[B],[C],[D],[E]、いずれにもつねにあるのだけれども。やはり、ぼくの翻訳の師匠はパヴェーゼだな。まったく隙のない訳しぶりなのだ。これを横目に見ながら、初学者としてはひたすらメルヴィルだけを念頭に翻訳してゆくほかはない。しかし、ぼくが考えねばならないのは、このように深くアメリカ文学と関わって、パヴェーゼがこの時期、果たしていかなることを構想していたか、ということなのだ。いずれ、そのことに触れる機会はまたあるだろう。
ところで、原作メルヴィルの第一行CALL me Ishmael.はたったの三語だ。[A]パヴェーゼ訳などはChiamatemi Ismaele. と、接尾辞-miはあるものの、たったの二語に過ぎない。ここは[D]ふるみね訳としてもうんと短く、力強く踏ん張りたいところだけど、「わが名はイシマエル。」で澄ましかえるのも、ちと気が引けるし、まっ、「イシマエルとぼくを呼ぶがいい。」あたりか……
また、この劈頭の一文を八木先生は、
わたしを「イシュメール」と呼んでもらおう。
と、イシュメールに「」をつけていらっしゃる。これはエイハブ=アハブと並んでイシュメール=イシマエルも旧約聖書中の人物であるよ、と読者の注意を喚起する先生らしい親切心の発露かと思われる。[D]ふるみね訳が、
ぼくのことはイシマエルとでも呼ぶがいい。/イシマエルとぼくを呼ぶがいい。
と、開き直りもしくは捨て鉢的響きを発しているのも、旧約聖書中の事跡を反映しているからに他ならない。勢いの赴くところ、エイハブ船長をもアハブ船長と呼びかけかねないけれども、それはいかに同名とはいえ、ジョヴァンニくんにヨハネさんと呼びかけるくらい無理なことだろう。イシュメールくんにイシマエルさんと呼びかければ、振り返りぐらいはするだろうけれども。
結局、[B]、[C]、[D]、[E]、いずれの訳も説明的になって失敗している。それでも、説明の方向性としては[D]が正しいと思う。また、「財布」については、ほんの数頁先で「中身がなけりゃ、財布などぼろっ布と変わらない」という箇所があるから、ここははっきりと「財布」と訳すのがよい。[B],[D],[E]が正解である。それから、船に乗るといっても、イシマエルは断じて乗客となって七つの海を観光しようというのではなくて、身命を賭して船乗りになって、それも捕鯨船に乗り組んで身銭を稼ぎ出すのであるから、ここでもそのように訳さねばならない。その点、パヴェーゼ訳はdarmi alla navigazineと明確である。ふるみね[D]訳も「船乗りになって」とはっきりさせている。[E]訳は「ちょっとばかり船に乗って水の世界を見物してこようかと」まるで観光客だ。話にならない。小説の劈頭だというのに、[B][C]訳をつき混ぜたような感じだ。もっと原文に集中してほしい。期待が大きいとその反動も大きいものだ。
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【附録1】
いや、いまの[E]訳に対するぼくの評言こそ、新訳本入手に要らぬ苦労をしたせいか、いささか八つ当たり気味だ。八木さんにはいつも何か気がつかされる。「水の世界」なんて、素敵じゃないか。田中さんもそう訳してはいるけれど。ふるみね訳は「世界の海原」か、阿部さんもそう訳しているぞ。
あれこれ諸訳をつき合わせてわかった風なことをいう弊害に落ち込んでもなるまい。初学者のおのれに相応しく、右顧左眄せずに、まずメルヴィルの原文を一字一句直訳してみる、つまりは逐語訳を試みることから始めるほうが、いっそ楽しかろう。blogのいいところは、思いついたら何でも有り――これはぼくの処世方針そのままだ――のところだ。
で、[以下、工事中]
CALL me Ishmael. イシュメールと呼べよ。/呼んでくれ、イシマエルと。/呼ぶがいい、(ぼくを、)イシマエルと。
Some years ago 何年かまえに
--never mind how long precisely ――きっかり何年まえかなんて気にするな/
--having little or no money in my purse,
and nothing particular to interest me on shore,
I thought I would sail about a little
and see the watery part of the world.
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『白い鯨』http://siroikujira.blogspot.com/
『流離譚‐本と絵と見えない恋と』http://ryuritann.blogspot.com/
『雑記掲示板‐恋』http://zakkikeijibannkoi.blogspot.com/
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【附録2】一円本の怪
いまふと思うのだが、値が一円で送料340円の古本というのも妙な現象だ。恐らく大量に扱えば、配送業者が値引きして、その差額で成立つ商いなのであろうが、発注者にしてみれば、配送料の名目でいやおうなしに一円の価格に上乗せした差額分を書店側に支払っていることになり、クリアーではないし、割引分がいささかも発注者に還元されないのは、いまどき珍しくアンフェアーなことである。
それにもまして、いまは古本の扱いで手をはなれたとはいえ、苦労して著した著訳書がたった一円で売られているのを目の当たりにした著訳者の心情は察するにあまりがある。卑近な例を挙げれば、恩師の『美しい夏』(岩波文庫)が古本ではたった一円で売られている。あたら良書がこれでは見るに忍びないからといって、341円かけて、際限もなく買い求めつづけるわけにもいかない。逆にぼくの『蜘蛛の巣の小道』(白夜書房)は絶版本とはいえ、古書で一万円の値がついている。恩師に倍すること一万倍である。これしきの現象にも、ある時期から出版的に不遇であったおのれの小鼻がいささか得意げにひくつくのだから、人間とは‐いやそこまで敷衍していいかどうかは疑問であるが‐憐れな生き物ではある。不遇に心が屈折するのは、易きにつく行為である。みっともないから、これっきりとしておこう。誰かが〈んもぅ、これっきり、これっきり、これっきりですかぁー〉と耳もとで唄ってくれたとしても。
追伸
丸の内署パトとチャリ警官の取締りを警戒しつつ、東京駅八重洲口界隈で客待ちをしながら読んでいると、ブログのタイトル『白い鯨』への恰好のひと押しが見つかった。もともと〈モゥビ・ディク。すなわち、鯨の中の鯨。〉中でのメルヴィルの「白」、獣性としての白、への言及を思うとき、卒然として湧いてきたこのタイトル「白い鯨」ではあったが、ここに屈強の拠り所を見出したかたちだ。そして本書『白鯨』への大事な視座を述べていると思われるので、やや長いがそのまま(太字は筆者)引用することにしよう。
八木敏雄訳(メルヴィル『白鯨』上・岩波文庫201頁)でピークオッド号の名まえの由来を説くくだり、訳注(63) 472 頁だ。
(63) 「ピークオッド」あるいは「ピーコット」は(マサチューセッツのではなくコネチカットの)インディアンの部族名であるが、この部族は一六三七年にピューリタンたちに襲われてほぼ全滅した。白人が北米で行ったインディアン大規模殺戮のはしりである。このことをメルヴィルが「古代メディア人のように絶滅した」部族と記述しているのは正しい。この絶滅させられたインディアンの名をもつ捕鯨船ピークオッド号が、白人船長の指揮のもとにアメリカ合衆国そのもののような多様な人種からなる乗員を乗せて、白人の心性の象徴そのもののような「白く巨大な鯨」を追跡して、かえってその「白い鯨」の反撃をうけてほとんど完璧に絶滅させられるというこの『白鯨』という小説の錯綜した寓意は、そう簡単には解明できそうにない。
これは八木敏雄著『『白鯨』解体』を読まずばなるまい。
☆ 毒性の高いプルトニウムを老朽福島原発の核燃料に混入させた東電首脳部糾弾!!
デルのディスプレイはおろか、CPUまで、金鎚でこなごなに破壊されてしまった。悪夢。けれども地震/津波の被災者に比べれば、命があるだけはるかにましか。当分は、漂泊者の身に近い。